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私が、私と、向き合う。 「廣目天」 東大寺戒壇院四天王像
私が、いつでも己の こころ と すがた をさらけ出して、お話しする仏像です。
お顔とお姿は、その時々の自分の心情で全く違って観えます。
今日はどこか冷ややかで、少し突き放されて、間をとっていられるようです。
足蹴にされている邪鬼の顔、でかい鼻の穴と裂けた口にめいっぱいの歯。
1200年以上にも亘り、その時代の庶民の煩悩を見続け、対話し、諭してきたのです。
早朝40分ほど、ほかの参拝者が誰もいない堂内で向い合っているうちに、こころが楽になって、頬が弛んできました。
ありがとうございました。また、お話しにまいります。
因みに、堂内中央にある立派な造りの多宝塔には、地元飯田市の旭松食品謹製の、「こうや豆腐」がいつもお供えしてあります。
また戒壇院参道には、写真家 故 入江泰吉氏の旧宅もあります。




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下伊那の歌人7
青葉濃き渓間流れてくる水に三月堂の灯ゆる々あり
たらちねの母の故郷は海の彼方遠くかすみてなつかしきかな
海達公子(1916-1933)
飯田市生まれ。幼少時より詩作始め、赤い鳥へ投稿。北原白秋らに高く評価された。短歌にも手を伸ばし、将来が嘱望されたが虫垂炎から腹膜炎を発症し17歳で死去された。両親は徳島県阿倍村(現在由岐町)出身で、海産物の行商を業としていた。徳島県を本拠地とする行商人は「阿波のいただきさん」と称されていた。商品を入れた籠を頭上に頂く姿が「いただき」の由来とされている。当時の国家戦略的な産業であった養蚕は、山間地の飯田下伊那地方においても重要な産業であった。周知の通り地理的には不利な地域であり、海産物は特に希少価値があった。飯田線が開通したのは昭和に入ってからである。経済的に潤い始めたこの地に海産物の販路を見いだしたのが阿波のいただきさんであった。彼らは馴染みの農家の一室を借り、そこを本拠地として行商を行っていたという。海達氏はこうした行商中に飯田の農家の一室で出生した。その後徳島で育ち、熊本に転居した。正確には下伊那の歌人ではないかも知れない。短い人生の中で再び飯田を訪れることはなかったと思われる。飯田地方を行商したいただきさんを知るきっかけになったのは残念なことに氏の資料からであった。いただきさんを知る人や資料は殆ど残されていないが、新たな観点から当時の故郷に思いを馳せるきっかけになった氏を敢えて下伊那の歌人と思いたい。
養蚕を知る人もめっきり少なくなった。
山畑に秋蚕の桑をひと葉づつ摘める手先に霧雨の降る
加藤 美秋 (既出)
2008 年 8 月 7 日 9:39 PM from 伊那の白梅