ニセアカシアの白い花が満開、思い出すのはあの唄
天龍川河原のニセアカシアの花が、今年もかすかに甘く匂っています
樹木は、成長が早く折れやすい、やや大きい棘が硬く
アカシアとは違い、普段はやっかいもののニセアカシアですが
同じく嫌われものの外来種、アレチウリのみどりとコラボしての白花房
思い出すのは、西田佐知子のあの物憂げな唄声
♪ アカシアの雨にうたれて このまま ・ ・ ・ しまいたい
♪ 夜が明ける 陽が昇る 朝の光のその中で
♪ 冷たくなった私をみつけて あの人は
♪ 涙を流してくれるでしょうか
歌手本人は 「お経みたいな辛気臭い唄」 と言われたようですが
♪ アカシアの雨がやむとき ♪ は小生のこころに浸み込んできます





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伊那の白梅さま
いつも投稿を楽しみにしております。
西田猪之輔の歌は、近く老いを重ねる我が身にとって、
あまりに強烈で、哀しくなりました。
2010 年 5 月 30 日 11:58 AM from 堅義理
下伊那の歌人16
異国の港アカシヤの街に在りし頃われに悲しき人のありたり
近藤政展 明治43年 山本村生まれ
「歌集 ひろ野 昭和四年十二月十五日印刷 著作兼発行者 大連市柳町三番地 西田猪之輔」札幌の古本屋で見つけた歌集の奥付である。著者の名には聞き覚えがなかったが、有名な歌人夫婦が歌を寄稿していた。その歌集には茶色く変色した花弁が数枚挟まれていた。見事なまでに薄く伸ばされ、昆虫の羽のように葉脈が浮いて出ていた。パラフィン紙のような肌触りの花弁はチューリップのそれに違いなかった。前の所有者は大連の街で押したのだろうか。勝手な想像が膨らんだ。
話に聞く大連は豪奢な建物が立ち並ぶ夢のような街だった。私が子供だった頃、大人の茶飲み話に戦時中の話題は普通に出てきた。街路樹のアカシアは、季節になると白い花が房状になって咲き、甘い香りが街中に漂うのだという。しかし、豊かな生活は搾取の上に成り立っていたから、敗戦は悲惨な離別や敗走を意味した。胸が詰まるような悲話を幾度となく聞かされたものだったが、話が悲しければ悲しいほどアカシアの花が揺れる大連への憧れは強くなるのだった。この歌集はその頃の記憶を思い出させてくれた。想像の景色には色とりどりのチューリップの花が加わった。しかし、大連を訪れる機会は今までなかったし、これからもないのかも知れない。気紛れな旅行を今の生活は許しはしない。
あれもしたい、これもしたいと思ったことは数多くあった。そのうちできるかもしれないと長い間温めてきたこともあるが、それらを一つまた一つと諦めていく歳になったのかも知れない。
或るときは燃ゆるが如き顔をせし君なりしかど老ひにけるかな 西田猪之輔
2010 年 6 月 1 日 9:54 PM from 伊那の白梅
先日(2011.6.3)父・斌(あきら)が亡くなりまして(享年90歳)、空疎な思いで気まぐれに祖父の名を検索いたしましたら、このホームページに行き当たりました。祖父・猪之輔は太平洋戦争前に病没しており、孫の私は記憶がありません。なんでも三重県伊賀市の農家の次男として生まれ、満州鉄道に勤務しておりましたが、のちに満州電信電話会社に勤務したようです。(ウィキペディアの「満州電信電話会社」の役員の名として名前だけ載っています。)満州在住のときは、大連と春陽に居をかまえて、与謝野晶子の娘の面倒を一時みていたようです。戦後は引揚者として、未亡人の祖母・すずとともに無一文同然となった父が銀行員として日本国内でほそぼそと暮らしておりました。まだ父の49日もすみませんで、遺骨は母の家にありますが、直筆の掛け軸がそばにかかっています。「歌舞伎座の緋の毛氈を踏むときも心に思うは蒙古満州 猪之輔」八王子在住、団体職員 56歳
2011 年 7 月 14 日 5:32 PM from 西田 哲(さとし)
前略。歌集「ひろ野」をめぐっての木魂日記さんと西田哲さんとのやり取りを興味深く、拝読しました。私は今、西田猪之輔さんのことを興味をもって、調べています。西田氏は、一九三九年に亡くなられたと思いますが、生年は何年でいらっしゃいますか?また、著作は、「ひろ野」「御空ゆく」「雲愁ふ」の三冊だけでしょうか?ご返事いただければ、幸いです。不尽。田中益三
2011 年 7 月 31 日 12:04 PM from 田中益三