「 塔をめぐる 」 2008.6.8中日サンデー版より
6月8日付、中日新聞 “中日サンデー版” に、
分かり易い「塔」の歴史が掲載されたので、一部抜粋します。
信仰の塔から眺望の塔へ 山崎幹泰(やまざきみきひろ)
広い平原を持たない日本では、遠来の敵を監視し、音や光で通信するための塔は、古来必要とされませんでした。日本の歴史における塔といえば、信仰の対象である寺院の仏塔のことであり、実用的な塔の発生は江戸時代まで待たねばなりません。
蘇我馬子が585年、「大野丘の北」に建てたのが、日本初の仏塔とされます。塔は本来、仏舎利(釈迦の骨)を供養する墓であり、インドのストゥーパがその源泉です。飛鳥から奈良時代には、高さ百メートルもの七重塔や九重塔も建てられました。ただし屋根は何重でも、床があるのは初重のみで、登ることはできませんでした。
やがて墓としての性格は薄れ、寺院のシンボルとして仰ぎ見られる存在となります。その配置は境内の中心から外れ、景観上の都合が優先されるようになります。平安時代以降、天台宗、真言宗では舎利を納めない多宝塔が建てられ、鎌倉時代に広まった禅宗では、塔は重視されませんでした。
一方、塔とは別に、眺望を目的とした建物が、室町時代から点てられるになります。金閣、銀閣などの楼閣建築です。これらは、将軍家別邸の建築として、庭園の景観を楽しむために、建築を多層化しました。その構想は織田信長の安土城に引き継がれ、城下町を見下ろす天守という高層建築を完成させます。しかし、高みの見物は、限られた一部の人の娯楽でした。
一般庶民に社寺参詣が広まった江戸時代後半、趣向を凝らした奇想の塔が現れます。さざえ堂として知られる旧正宗寺三匝堂(しょうそうじさんそうどう、福島県)は、二重らせん状の通路を巡る塔であり、清水寺三重塔(島根県)は三重にも床を設け、眺望を楽しめる塔として建てられました。
近代に入ると欧米から導入された新しい建築技術とエレベーターの実用化が、江戸の塔を都市のタワーに変えました。当初は展望塔として、後に広告塔として多くのタワーが建てられたのです。戦後はテレビの普及により電波塔が求められ、名古屋テレビ塔、東京タワーなどが相次いで建てられました。そしてこれらには、必ず展望台が設けられたのです。
(金沢工業大学准教授)



コメント&トラックバック