映画 『大鹿村騒動記』 の主演、原田芳雄さん逝く
お亡くなりになった日の77日前、5月3日、大鹿村「大磧神社」にて
痩せこけた頬と、やさしい口元、そしていとおしむような鋭い眼差し
その目線の先には ・・・・
大鹿歌舞伎 春の定期公演 で演じられている
あの 『六千両後日之文章 重忠館の段』 のクライマックス
どうかこれからも、美しい大鹿村の人々の生活を、見守ってくださいませ。
原田芳雄さまのご冥福を、こころよりお祈り申し上げます。
お亡くなりになった日の77日前、5月3日、大鹿村「大磧神社」にて
痩せこけた頬と、やさしい口元、そしていとおしむような鋭い眼差し
その目線の先には ・・・・
大鹿歌舞伎 春の定期公演 で演じられている
あの 『六千両後日之文章 重忠館の段』 のクライマックス
どうかこれからも、美しい大鹿村の人々の生活を、見守ってくださいませ。
原田芳雄さまのご冥福を、こころよりお祈り申し上げます。
民俗学者 宮本常一 氏の名著 『忘れられた日本人』 中の 『名倉談義』
昭和31年に、地元の年寄たちにより語られる、「万歳峠」とは
「万歳峠というのはな、村の者が兵隊を見送っていくのに、峠の上までいって万歳をとなえたのではまことに愛想がない。皆さん行って来ますいうて、峠をおりたのではすぐ姿が見えなくなる。そこで峠の上から六、七丁もこちらへ下った市場口の北のはずれで見送ることにした。
そこで万歳をとなえる。行くものはそれからあるきながら手をふる。こちらも立って手をふる。道が曲がって姿が見えんようになるまで、しばらくは時間もかかる。まァ、名残りをおしむというようなわけで。日露戦争のときも、日独戦争のときも、今度の戦争のときも、入営兵士のあるときは、みんなそこで送ったもんです。村を出ていくのにもおもむきのあったもんです。」
「それでもやっぱり車のとおる道のできたのはよかった。もとは細い谷の延坂(のべざか)の上まで上がって来たもんだった。あの道ができて間もなく日清戦争がはじまって・・・・・。」 「そうそう、あれから万歳峠になった。」
『名倉談義』の座談会場となった、大蔵寺(だいぞうじ)のお大黒さんのお話しで
「万歳峠」を地元では、「ばんぜえとうげ」 と呼んでいたことがわかりました
当時の名倉村で、宮本常一氏の現地調査を世話して下さったのが
「大へんな郷土史の百姓学者がいて、村人から尊敬されている」 澤田久夫氏でした
澤田久夫氏は、自分の息子と娘へ、素晴らしい手作りの絵本を残されました
「ラムノシタワ」 「ラムノクボ」 とは、 「私の村、僕の村」 です
政策をつくる 人を育てる 社会を変える 『 東京財団 』
英語サイトには、日本の社会や文化を海外の人に知ってもらうため
さまざまな記事が掲載されています
The Great Handicraft Extinction (2)
塩野米松氏の執筆された 『手仕事と共になくなったもの』 『消えた徒弟制度』 の
英訳記事中に、宮大工 櫻井三也棟梁の技による、
[ 槍鉋 ] と [ 龍の彫りもの ] が写真で紹介されました
不思議なご縁で、本物を希求する方々に巡り合えました
ありがとうございます 心より、感謝申し上げます
急峻な斜面で、龍峡小梅がようやく開花しました
実の収穫時に、一個でも落とせば、もぅー大変
遥か彼方にまで、転がり落ちていってしまいます
86歳になった今も、栽培を続けている筒井隆さんと愛犬のイチです
なんと、筒井さんは真冬でも靴下を穿かずに、素足です
ご自宅の庭先には、「にたり」という甘柿の大木が構えます
居間の壁に、何かのご縁で驚くべきものに出会いました
『 西尾 実 』 さん1889年生まれ
(国立国語研究所初代所長) 下伊那郡阿南町出身 直筆の文章です
「知っているか、伊那の谷の入り口に立って 遠く望む南の空の夕映えの美しさを。
あの遥かな空の下で、父と母が爐を囲んで、わたしの帰って行くのを待っていたのは
幾とせ幾たびであったか。それは過ぎ去った日の思いでにすぎなくなった。
が、あの南の空の夕映えの美しさは、今もわたしを立ち止まらせ、
わたしの心を惹きつける。」
昭和三十五年五月九日 西尾 実