桜守ガイド堅義理くんの趣味の日記。日本伝統の木造建築の情報も掲載していきます。

南信州の自然と風土をこよなく愛する管理人の情報発信日記です
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宮大工がつくる木造建築のお墓 ” 五輪塔 ごりんとう “

宮大工櫻井三也がつくる、後世に伝える魂の原形 「木魂こだま」

この「木魂」の様式 『多宝塔』 『夢殿』 に加え、新たに 『 五 輪 塔 』 が登場です

「五輪塔」とは、上部から順に 空・風・火・水・ 土 を表します

正面中央に、「○○家」、「南無阿弥陀仏」、「南無妙法蓮華経」 などを彫り込みます

彫りこむ材料には、無垢材または、銅板を選択できます

また、側面を “墓誌” として同様に活用することもできます

背面に玄室(納骨室)用の扉があり、刳り抜いてある礎石内に納骨します

従来の墓石と違い、地震で倒壊する恐れはありません

宮大工が、日本伝統の技と、日本の大樹からつくる、

木の温かなぬくもりある、本物の価値ある木造建築です

大きさは、標準タイプで高さ1.85m、屋根幅1.4m、礎石0.85m 四角

( ごく普通の墓石ほどの大きさです )

使用木材は欅( けやき ) 、玄室内張りに桐材、屋根下地に檜材

屋根は銅板葺き、宝珠・風鐸・装飾金具付き

礎石は白御影石の一枚もの( 厚さ0.3m )

費用は280万円が目安ですが、その都度ご希望の仕様をお聞きして、お見積りします

随時受注しておりますが、納期は約50日ほどかかります

詳しくは、ホームページの 「お問合せ先」 までお願い致します

(2008年06月26日 16:06 from 堅義理 )
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「 塔をめぐる 」 2008.6.8中日サンデー版より

6月8日付、中日新聞 “中日サンデー版” に、

分かり易い「塔」の歴史が掲載されたので、一部抜粋します。

信仰の塔から眺望の塔へ 山崎幹泰(やまざきみきひろ)

広い平原を持たない日本では、遠来の敵を監視し、音や光で通信するための塔は、古来必要とされませんでした。日本の歴史における塔といえば、信仰の対象である寺院の仏塔のことであり、実用的な塔の発生は江戸時代まで待たねばなりません。

蘇我馬子が585年、「大野丘の北」に建てたのが、日本初の仏塔とされます。塔は本来、仏舎利(釈迦の骨)を供養する墓であり、インドのストゥーパがその源泉です。飛鳥から奈良時代には、高さ百メートルもの七重塔や九重塔も建てられました。ただし屋根は何重でも、床があるのは初重のみで、登ることはできませんでした。

やがて墓としての性格は薄れ、寺院のシンボルとして仰ぎ見られる存在となります。その配置は境内の中心から外れ、景観上の都合が優先されるようになります。平安時代以降、天台宗、真言宗では舎利を納めない多宝塔が建てられ、鎌倉時代に広まった禅宗では、塔は重視されませんでした。

一方、塔とは別に、眺望を目的とした建物が、室町時代から点てられるになります。金閣、銀閣などの楼閣建築です。これらは、将軍家別邸の建築として、庭園の景観を楽しむために、建築を多層化しました。その構想は織田信長の安土城に引き継がれ、城下町を見下ろす天守という高層建築を完成させます。しかし、高みの見物は、限られた一部の人の娯楽でした。

一般庶民に社寺参詣が広まった江戸時代後半、趣向を凝らした奇想の塔が現れます。さざえ堂として知られる旧正宗寺三匝堂(しょうそうじさんそうどう、福島県)は、二重らせん状の通路を巡る塔であり、清水寺三重塔(島根県)は三重にも床を設け、眺望を楽しめる塔として建てられました。

近代に入ると欧米から導入された新しい建築技術とエレベーターの実用化が、江戸の塔を都市のタワーに変えました。当初は展望塔として、後に広告塔として多くのタワーが建てられたのです。戦後はテレビの普及により電波塔が求められ、名古屋テレビ塔、東京タワーなどが相次いで建てられました。そしてこれらには、必ず展望台が設けられたのです。

(金沢工業大学准教授)






(2008年06月12日 18:19 from 堅義理 )
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「みつびき」の名物女将、平澤裕子さん、逝く。

「あなたの言っていることは、理屈で生意気で、気にいらん。」

「もう、帰ってくんな、また来んでもいいで」

三日後、「悪かったなあ」お互いに気脈が通じて、通い始めて15年ほど。

どん底の時は静かに優しく諭され、得意な時はますます励ましてくれた。

“まだ見ぬ仏を訪ねて”の旅では、仏像に向う小生の涙を目撃され、こっそり称賛してくださった。

9ヵ月におよぶ闘病生活のすえ、5月31日に逝去された。

昨夜のお通夜と、本日の告別式、葬儀に参列させて戴き、お別れしてきました。

裕子さん、ありがとう。あのポークハワイアンの味とともに終生忘れません。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

地元の新聞、南信州「日言」に本日6月3日付けで掲載された記事を紹介します。

本社が育良町に移ってからも、夜のとばりが下りると丘の上に足を運びたくなる理由が一つあった。中央通り西友裏の「みつびき」に立ち寄ることだ。

のれんをくぐると、いつものメンバーに女将(おかみ)の笑顔があった。みつびきが閉店してから9ヵ月。元気になって、また新しい人生を開くんだと、そんな気構えで闘病生活に入った女将、平澤裕子さんが亡くなった。

ママと呼ぶ人がいれば、おかあちゃと呼ぶ人がいる。狭い店でも、ここの女主人は気風が違う。これはやっぱり女将だぞ。若者連中が女将と呼ぶと、ほかの大人たちもそう呼び始めた。20年も前の話だ。

公務員がいれば僧侶も会社社長もいる。出勤前のホステスに、行き場のない若者、ここがおれの根城だと陣取るよた者もいた。じぶん自身を律しながら、雑多な客と同じ目線で接する。談論風発が起きると、なぜかそのメンバーの中に女将がいた。

明治大学教授だった後藤総一郎さんの行き付けの店として知られた。いつしかそこに議論好きが集まり、もう一つの常民大学が開かれた。後藤さんが他界してから、気丈な女将にも迷いと病魔が襲った。それでも踏ん張って、行き場のない、昔若者だった中年男たちを笑顔で迎え入れた。

享年64歳。二度と戻れない時間と、飯田の大切な文化をまた一つ、無くしてしまった。女将らしい辞世の句は、 「葬式は短く、宴会は長く」 だったそうだ。 合掌。

記者の村澤聡さん、ありがとうございました。

(2008年06月03日 17:51 from 堅義理 )
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地元情報誌、”月刊いいだ” に掲載されました。

月刊・タウン情報「いいだ」4月号 ”和の匠” に載った櫻井棟梁の記事を紹介します。

「和の匠」飯田下伊那ものづくり紀行

宮 大 工

一般住宅と違い、構造から装飾まで独特の様式を備えた”祈りの場”としての建築に関わる宮大工。新築建造だけでなく伝統建築の守り手として、文化的価値が高い建物にも携わり、解体や修理も行う。在来工法や木材の知識に加え、複雑な造作や曲線を作り上げる高度な技術も要求される職人だ。

歴史ある神社仏閣が多い南信地方。建立は京都や奈良から職人を招き入れて行われ、この地に残した技術で多くの宮大工が生まれたといわれている。

現在は全国で二桁にまで減少したといわれる職人の世界に自ら足を踏み入れたのは、清内路村「三清建築」の櫻井三也さん(54歳)。15歳で一般大工の棟梁に弟子入り後、奥の深い宮大工の技術に魅せられ27歳で独立。口伝のみで守られる伝統を習得するため、寺社に出向いては”目”で研究し、独学で自分のものにした。古民家の再生や次世代の育成にも取り組み、「後世に残る作品として責任をもち、何百年後に修理にあたる宮大工がほれ込むような物を作りたい。今の時代を生きた使命だという気持ちで伝統と向き合う」と話す。

職人としてのその強い誇りを厳かな寺社自体が物語っていた。

すべての作業の始まり「墨付け」。熟練の”勘”がものをいう。

取材していただいた棚田さん、ありがとうございました。

(2008年05月27日 19:46 from 堅義理 )
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宮大工がつくる あなただけの木造建築 「夢殿」「多宝塔」

奈良斑鳩法隆寺 夢殿

この夢殿ご本尊は、聖徳太子等身の秘仏「救世(くせ)観音像」です。

毎年、春と秋に特別開扉されます。

さて、宮大工櫻井三也がつくる、いまだけ、ここだけ、たなただけ、の「夢 殿」 です。

法隆寺夢殿に代表される八角円堂の一隅を、変化工夫したデザインで、

特許庁に意匠登録してあります。

世界中でただひとつ、宮大工櫻井三也のつくるあなただけの宝物です。

日本伝統の木の文化と、本物の価値を後世に遺します。

いまだけ、 限 定 5 棟 受注・建立致します。

建立費用及び工期は、木魂の大きさ・仕様などで異なりますが、

高さ2.4m で費用は880万円~ 、工期は3ヵ月~4ヵ月が目安となります。

木魂 ( こだま) の建築様式には、「 夢 殿 」 と 「 多 宝 塔 」、「五輪塔」 があります。

木造建築のお墓として、多宝塔を建立された方もいらっしゃいます。

詳しくは、本ホームページ □ 木魂 ( こだま) をご覧ください。

(2008年05月25日 17:17 from 堅義理 )