桜守ガイド堅義理くんの趣味の日記。日本伝統の木造建築の情報も掲載していきます。

南信州の自然と風土をこよなく愛する管理人の情報発信日記です
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「信州の名工」に 宮大工 櫻井三也 棟梁が選ばれました。

こ の 道 ひ と す じ 「 信州の名工 」  日本古来の技術 後世に

清内路村に生まれ育った。子どものころから彫刻好きで、

「同級生がメンコやチャンバラ遊びをする横で、小さな仏像や大黒を彫っていた」

神社仏閣の彫刻を夢見て、十五歳で大工修行に入り、二十一歳で独立した。

「自分の手で建物が生まれたり、神社仏閣や古民家が生き返る。大工は建物の医者みたいなもの。建物の歴史を大切に、いかに長く親しまれる未来につなげるか。大変ですが、やりがいがあります」

飯田市の白山社奥社をはじめ造営、修復した神社仏閣は県内外で五十件近い。

日本古来の技術を後世に伝えたいと、国の大工育成プロジェクトにも参加し、昨年は県内初の卒業生を送り出した。

「昔の職人技術は素晴らしく、見ることが自分の栄養となり、もっと腕を磨きたいと奮起します。若い職人を育て、古い建物や技術を守り継いでいくことが今後の夢です」

中日新聞11月13日付け記事より

11月19日に長野市のメルパルクにて、表彰式が行われました

(2008年12月30日 19:30 from 堅義理 )
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書籍 「歳月」から、③ ” 少年の肩 “

まさか、そんな馬鹿なことが  。

間違いにきまっている。

私の頭の中は、否定の言葉ばかりが駆けめぐる。しかし、体中が震え出して止まらなくなってしまった。一刻も早く娘の所へ行かなければとあせっても、立てない、歩けないの状態がしばらく続いた。

気持ちを立て直して、ようやく娘の家に着いたのは、夜の十時近くであった。

普段と変わらない玄関灯の下で、私は、もう一度背筋を伸ばし、しっかりしなくてはと自分に言い聞かせた。

平成六年四月二十六日、二十時十五分ころ名古屋空港に着陸しようとした、台北発の中華航空機140便エアバスA300-600Rが着陸に失敗して同空港南端滑走路に墜落した。

機体はたちまち炎上して、乗客のほとんどが死亡するという大惨事を引き起こした。

この事故を私は、長男○○からの電話で知った。

スイッチを入れた民放テレビの画面には、燃え上がる炎や、焼けただれた機体、それに、行き交う消防隊員が映し出されていた。

映像の合間に、搭乗者名が流れはじめた。その中に、二日前、台湾旅行に出掛けた○○○○○○○○という婿の名前があった。

ひっそりとした家の中で、娘は婿の旅程表を食卓に展げて座っていた。

間違いではないのかと問う私に、「旅程表の便名とは違っているが、台北発であるし、到着時刻が同じであるから、多分、この飛行機に乗っていたと思う・・・・・・」 と、答えると黙ってしまった。

予期しない重大事に、これからどう対応すればよいのか見当がつかないのだろう。私も同じである。

三人の孫たち(小学六年生、四年生、一年生の男児)は、すでに眠っていたが、私の気配で六年生の○○○だけが起き出してきた。

翌朝、修学旅行に出発する○○○には、この事態をそのまま知らせたくなかった。だが、いつもの雰囲気と違うせいか、娘の回りを行ったり来たりしてなかなか眠ろうとはしない。ようやく十二時ごろ布団にもぐり込んだ。

テレビを見るのはつらいという娘に代わって私は、別室で事故の推移を追った。

事故機の乗客は255人で、この中に、飯田市の「M会社協力会」の台湾旅行に参加した22名が含まれていることが分かった。婿もその仲間であった。

つづいて、協力会の関係者ら四十人ほどが大型バスで名古屋に向かったことも報道された。バスには、婿の兄と、勤務先の社員二人が乗ったことを、後から知らされた。

この時点で、空港の状態を知る連絡は皆無で、情報はテレビ放映に限られていて、不安だけが先行していた。

午前二時、娘は○○の運転する車で名古屋に向かうことになった。現地の状況が分からないため、パジャマと毛布だけを持った。私は、○○○のために作ってあったおにぎり三個を包んで持たせた。そして、「協力会の人たちは、全員生きているから大丈夫だ  」と、言葉を添えて送り出した。

二人の車が角を曲がって、尾灯が見えなくなった。私は、なおもテレビを見続けたが、生存者数は少しも増えない。

( 生きていてくれ。生きていなければ・・・・・・・ )

娘たちの車が、恵那山トンネルを通過すると思われるころ、飯田からの一行22名に生存者はいないことが判明したと、M会社から電話連絡が入った。

四月下旬の夜明けは早い。

すっかり明るくなった午前五時すぎ私は、☆☆☆小学校へ向かった。六年生の修学旅行出発の朝である。父親の死亡が確認されたので、○○○の旅行参加を急きょ取り止めるためであった。

○○○の担任の先生は、「わかりました」と深くうなずかれてから、「私たちは、予定したことなので行かせていただきますが・・・・・」と、丁寧な口調でなぐさめの言葉をかけてくださった。

○○○の枕元には、しおりや、おやつが詰められた真新しいリュックサックがある。洋服や、くつ下、それに、靴まで新品で揃えられている。一生に一度だけの小学校の修学旅行は、親子ともども胸をはずませて待つものだ。

父親の突然の死を、○○○にどう話そうか。私は、旅行を取り止めるための説得を考えつづけた。この際、事実を曲げて伝えることはよくない  。

二転三転の思案の末、飛行機は炎上したが、救助されている人もいるから、お父さんは、きっと大丈夫だと思う。名古屋へ行っているお母さんからの知らせがあるはずだから、きょうの旅行は見合わせることにしたと、○○○の目を見て話した。

「おれ、なんで旅行に行けんのなあ ? どうして  」

○○○は、いつになく真剣な顔つきで聞き返した。私は、もう一度、同じ内容の説明を手短かにするしかなかった。

○○○はリュックサックを引き寄せて、しおりを開いたり、おやつの袋を取り出してみたりしていた。しばらくして、

「おれ、旅行に行けんのなら、旅行記書かかんでもいいんだなあ・・・・・・」と、ぼそりと言うと、敷き放しの寝床に再び横になり、私に背中を向けた。

その少年の肩が、かすかに震えていた。

[ あれから14年、○○○は26歳になり、現在は名古屋で元気に働いている ]

書籍 「歳月」 は、1995年2月10日に発行されました。

①~③は、著者の亡夫、長男、初の男孫について書いてあります。

(2008年12月28日 17:24 from 堅義理 )
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書籍 「歳月」 から、② ” うしろ姿 “

「おじいちゃ。どうして死んでしまったんな」

体にわずかな温(ぬく)みをとどめてはいるものの、もうこの世の人ではない私の父の手を握って、夫は叫んだ。

一人暮らしだった父が危篤だという知らせを受けて、私たちが駆けつけたのは、夏の夜が明けはじめた昭和三十四年八月末のことであった。

その夜、湯灌が行われた。

きびしい残暑に加えて、ドライアイスも普及していない当時のことで、一日を経過した遺体からは、早くも死臭が漂いはじめていた。

私は、たくさんの線香を焚いて、その臭いを押さえようとしたが、臭いは募るばかりであった。

どうしてこうも気になるのだろう、私だけが・・・・・。

この臭いは、引き止める父を振り切るようにして、嫁いでしまった私への、父の苦言なのかもしれない。そう思いついたとき、手渡された藁襷(わらたすき)を持つ手は震えて、立ちつくしてしまった。

ぼんやりとしている私とは反対に、夫は、納棺の手伝いをはじめた。壊れ物でも扱うように亡き骸を抱いたり、ときには生きている人に話すような言葉をかけながら、仏となった父に奉仕していた。

そのとき、肩幅のある夫のうしろ姿からは、やさしさとあたたかさが、ごく自然に溢れ出ていた。

それから数年たって、夫の祖母が亡くなった。このときも夫は、心をこめてお世話をして見送った。私は、変わりのない夫の誠実さに再び深い感動を覚えたのだった。

普段は、気が短くて怒鳴ることや酔って深夜に帰宅することなどしょっちゅうで、仕事柄か人使いも荒かった。その上に、木を扱う商売だからというわけではないが、気(木)も多くて、ときどき女性関係のもつれなども生じた。

私は、その都度耐えたり、努力はしたが、腹が立つことの方が優先した。本気で別れようと考えたことも、二度や三度ではなかった。

でも、最後の決断をする一歩手前で私を思いとどまらせたのは、祖母や父の終焉に垣間見た夫の、かくされた人間的な ” あたたかさ ” であった。

あれから三十年余りが過ぎた。

生前の夫に、私は、この思いを告げたことはなかった。が、あのときの感動が夫婦の絆を支えてくれたすべてであったことは、たしかである。

書籍 「歳月」 は、1995年2月10日に発行されました。

(2008年12月23日 19:47 from 堅義理 )
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書籍 「歳月」 から、① ”バナナ”

昭和30年生まれの長男○○が、4歳ごろのことである。

近くのN食料品店の店先に、よく熟れたバナナの房が並んでいた。それを見つけた○○は、

「うわっ! バナナだ! 買って、買って。おかあちゃ買って」と、大きな声でせがんだ。

そして、「さっちゃんはね、バナナが大好きほんとだよ・・・・・」保育園で覚えたきたばかりの歌をうたい始めた。

歌い終わると、こんどは、「バナナ、バナナ、うれしいな・・・・・」体を躍らせて、バナナのそばから離れようとはしなかった。

絵本では見ているものの、○○がバナナの実物を目にしたのは、このときが最初であった。

私は、一本二十円のそのバナナ二本をもとめることにきめた。

店のご主人は、調理場から包丁を持ってきて、大きな房から二本を切り取った。

そして、「坊や、これはうまいぞ」と、言いながら、一本ずつに分けて直接○○の両手に持たせてくれた。

店内には、買物籠をさげた数人のおばさんたちがいて、「坊や、良かったなあ」と声をかけてくれた。

みんなの視線を浴びて○○は二本のバナナをかかげてみせた。

一本ずつ持ったバナナは、小さな片手では握りきれない大きさであった。

私は、つぎに買う物をさがして息子から少し離れた所にいた。すると、「まあ。坊やったら・・・・・」後ろから一人の客の声が飛んできた。ふり返ると、店の中央にいる息子が、右手に持っているバナナに、皮ごとかぶりついているではないか・・・。

「あれっ!  まあ。ちょっと、ちょっと待ちな・・・・・」 私は駆け寄った。

そして、○○の口元にある右手をバナナごと脇におろさせて、左手も押えつけた。

「まあ、この子ったら」 さりげなく笑いながら、私は、急いでバナナだけの勘定をすませた。

怪訝な目で見上げる息子の背中を小突きながら、足早に店をでるのがその時の私には、精いっぱいの思いつきであった。

バナナは皮をむいて食べるものだとまだ教えてなかったから、食べ方を知らないのは無理もない。

○○にしてみれば、さっちゃんの歌の言葉で知っていたバナナと、その実物が目の前で一致したのは、きょうが初めてなのである。だから、分かるはずもないわけだ。

りんごを皮ごと食べる発想でかぶりついたにちがいない。

私は、店から離れた道端まで○○を引っ張って来て、息を整えながら屈んだ。

小さな手にしっかり握られていた、噛んだ歯形の残っている方のバナナの皮を、息子の目の前でゆっくりむいた。

皮を半分ぐらい残しておき、両手を重ねて持っていた手の平にのせた。

息子は、最初のひと口はそっと口にいれ、味をたしかめているようだった。つづいて、ひと口、つぎは、パクリと大口にたいらげてしまった。

食べ終わった息子を、午後の日ざしに向けて、私は、高だかと抱きあげた。

あのころのバナナは、まだ珍しい果物であった。

バナナが全面自由化されて輸入されるようになったのは、たしか昭和三八年ごろであった。あの失敗から数年経てからである。自由化にともないバナナは多量に市場に出回ってきて、身近な、ありふれた果物となった。値段にしても三十年前とほとんど同じで手に入る昨今である。

はじめて口にしたときのバナナの味、その後、自分でむいて食べてきた味について、息子と話しあったことはないが、

あのときのうっかり劇のひとこまは、私の脳裏の片隅に居座ったままである。

ご推察の通り、○○は、小生「堅義理」であります。

書籍 「歳月」 は、1995年に発行されました。

(2008年12月20日 21:47 from 堅義理 )