カテゴリ>>木魂日記
『名倉談義』 から55年を経た 「万歳峠」(奥三河設楽町)
民俗学者 宮本常一 氏の名著 『忘れられた日本人』 中の 『名倉談義』
昭和31年に、地元の年寄たちにより語られる、「万歳峠」とは
「万歳峠というのはな、村の者が兵隊を見送っていくのに、峠の上までいって万歳をとなえたのではまことに愛想がない。皆さん行って来ますいうて、峠をおりたのではすぐ姿が見えなくなる。そこで峠の上から六、七丁もこちらへ下った市場口の北のはずれで見送ることにした。
そこで万歳をとなえる。行くものはそれからあるきながら手をふる。こちらも立って手をふる。道が曲がって姿が見えんようになるまで、しばらくは時間もかかる。まァ、名残りをおしむというようなわけで。日露戦争のときも、日独戦争のときも、今度の戦争のときも、入営兵士のあるときは、みんなそこで送ったもんです。村を出ていくのにもおもむきのあったもんです。」
「それでもやっぱり車のとおる道のできたのはよかった。もとは細い谷の延坂(のべざか)の上まで上がって来たもんだった。あの道ができて間もなく日清戦争がはじまって・・・・・。」 「そうそう、あれから万歳峠になった。」
『名倉談義』の座談会場となった、大蔵寺(だいぞうじ)のお大黒さんのお話しで
「万歳峠」を地元では、「ばんぜえとうげ」 と呼んでいたことがわかりました
当時の名倉村で、宮本常一氏の現地調査を世話して下さったのが
「大へんな郷土史の百姓学者がいて、村人から尊敬されている」 澤田久夫氏でした
澤田久夫氏は、自分の息子と娘へ、素晴らしい手作りの絵本を残されました
「ラムノシタワ」 「ラムノクボ」 とは、 「私の村、僕の村」 です






