宮大工棟梁【桜井三也】 神社・仏閣・彫刻・建築工事/長野県南信州阿智村清内路

木魂ものがたり

 もう20年ちかく前のことです。
 地元の木材会社の二代目、Kさんから意外な依頼がありました。父親が亡くなって、墓を建てたいが、木造建築の塔を造ってくれないかと。
 Kさんの父親は、農家の長男として大正15年に生まれ、牛荷車引きから身を興し、山林の立木入札から伐採、製材、木材販売、そして住宅建築工事へと、奥さんと二人で努力して、一代で木材会社を築き上げた人です。
 木とともに生きてきた父親の、太く短い人生の終焉にあたり、Kさんは、 父の遺骨は冷たい石塔の下には入れたくない、将来自分自身も石塔には入りたくない・・・・・、お釈迦様の仏舎利は、五重塔の芯柱の元に納められているではないか・・・・・ と思い続けていたのです。
 Kさんは子供の頃から仏像や仏閣に魅せられて、奈良、京都のみならず、いろいろな寺院を巡っていたらしい。大学文学部史学科の卒業論文に「東大寺法華堂(三月堂)建立について」を書いたとも聞いた。また
彼は、法隆寺宮大工棟梁の西岡常一氏を尊敬しており、 宮大工の技をもって、200年以上の樹齢の木曾檜を使用すれば、木造の塔も200年はもつはずだ と話した。宮大工として、 一般市民でも木造建築のお墓、塔を建てたい というお施主さんの希望に得心し、お互いの価値観が一致した結果、平成3年9月に、多宝塔様式の木造建築墓を無事に建立することができた。
 その後、一つだけ残念なのは、墓地が公営霊園であり、墓石に高さ制限があるため、高さ1mの相隣を取り外し宝珠に代えたこと。彼は、 規制対象の石塔とは違って、大地震にも木造建築墓は倒壊しないから、周りにご迷惑はお掛けしない と説いたそうだが、認められなかったそうです。幸いにも、法事の都度相輪を付け代えることは許されました。
 建立後16年ほど経った現在は、誰にいたずらされることなく、風雪雨に耐え全体に風格さえ感じられ、時には知らない人までがお参りされているようです。
 そして何よりも、彼と家族の皆さんの、生きてゆく気概の支えとなっているそうです。
因みに、彼のお父さんの戒名は 「志高院満岳美林居士」 です。